江戸時代は「江戸名所図絵」にも載るほどであった押上の最教寺ですが、安政2年(1855年)10月の安政江戸地震で伽藍を焼失し、衰退していきます。明治35年(1902年)に第28世住職の亡き後、浅草北松山町の玉泉寺住職・豊田上人が招聘され最教寺・玉泉寺を併合し最教寺第29世住職になられました。しかしその後、大正12年(1923年)9月の関東大震災により2度目の壊滅的被害を受け、2年後に豊多摩郡杉並村大字高円寺(現在の杉並区和田3丁目)へ移転しました。その後環状7号線道路整備の影響で昭和40年(1965年)から5年ほどの歳月をかけ、八王子宮下町へ移転し現在に至ります。